持論のゲームデザイン二分論「意識と無意識」について前振りを。
脳科学を超解釈すると、自分は二人いる。意識と無意識だ。
大事なのはそこだけ。
以下はゲームに関係ない脱線なので次の横棒まで読み飛ばしてくれ。
意識と無意識
関係ない考え事をしながら車の運転をしたり工場の流れ作業をできるのは、コンピューターのマルチタスク実装に例えればプリエンプティブやタイムスライスで一つのCPUコアを分割して使いまわしているのではなく、人間にはもともと二つのCPUが搭載されているから。
新しい行動は最初に意識の自分が実行し、それを繰り返して十分に学習が進むと、無意識の自分に任せられるようになる。無意識の自分は間違いやすいが実行速度は速いし、疲れを感じない。
無意識は単純繰り返し作業向きだけど、朝起きてから準備して電車で通勤して会社で始業するところまで、学習が進めば全部無意識に任せられる。定型的な会話や買い物も任せられる。潜在能力は相当高い。
人の行動の9割は無意識が実行してるというが納得だ。
人生と無意識
経験が蓄積するほど何でも無意識に任せられるようになるので、年齢が上なほどその人の主体は無意識だ。
「意識の自分」を自分と認識しているけど、やがて意識は無意識に飲み込まれる。
無意識に自分をまかせることを解脱と表現したのかもしれない。物語でよくある、長い時を生きた長寿者の個が薄れて集合知に飲み込まれるような感覚も以下同文。
労働と無意識
PCもネットもない手作業仕事時代と比べて勤務時間は大幅に減ったのに、現代の仕事の方が疲れる気がするのは「意識の自分」の労働時間・労働量が大幅に増えたせい、が持論。
昔はオフィスワークといえど単純労働の占める時間が多かった。それは意識ではなく無意識の自分に任せられる労働。意識の自分にとっては休憩だし楽だ。疲れない。
手や足を動かしてる時間、過去やったことの繰り返しのような定型化された労働は、オートメーションやITテクノロジー、または派遣社員や外注に任せられるようになった。現代のオフィスワークのメインは、無意識に任せられない「意識の自分」にさせる仕事だ。意識に仕事させるとすぐに疲れる。
意識の自分は、1日何時間も働くようには出来ていない。集中力の続く時間はせいぜい50分、学校の授業程度、それが意識の自分の活動限界なのだろう。
9割は無意識に任せ、要所要所で意識が登場するのが人間という生物の本来の活動スタイルだと思う。
無意識の自分の正体は機械学習AIだ。それは逆。無意識の自分を再現した結果が機械学習AIなのだろう。人類すごい。
機械学習には「教師あり学習」「教師なし学習」「強化学習」がある。
ここから先は全く根拠のない自分の思い付きだが、無意識の自分も同じパターンに分けられると思う。人間の脳にも似た仕組みがあるのではないか。
教師あり学習:正解判定により学習する。「意識の自分」が教師役となり、正解/不正解を決めている。機械部品の製造で、毎回作ったものを合格/不合格検査していればそのうち「指が覚える」のように。
教師なし学習:大量の体験を、外部からの情報や指導抜きで無意識自身が分類する。猫という名前も存在も知らなくても、毎日あちこちで猫を見かけていれば、そのうち自分の中に猫という分類(名前は知らなくても)が出来上がる。
強化学習:正解判定ではなく報酬(スコア)で学習する。人間の場合は「気持ち良さ」を報酬としている、がおれの解釈。空中をジャンプして次の足場に上手く着地できれば気持ちいい。バットを振ってジャストミートすれば気持ちいい。スピードを出してギリギリを攻めると気持ちいい。<この脳内報酬設計ってゲーム設計そのものじゃん?だからおれは「無意識の自分」のためのゲームをデザインしたい。
誰しも自分は二人居る。どちらの自分のためのゲームか。へ続く。
コメントは締め切りました。